日本古代史上、3世紀に必ず存在した邪馬台国をめぐる倭国内の情勢について、私の中に2つのストーリーがおぼろげながら作られつつあります。まだまだ未分化で曖昧模糊としていますが、そのことについて書いてみます。間違っているかもしれないことは承知の上です。
まず、私は広畠さんや岡さんや近重さんの言われるとおり、欠史八代説は採りません。記紀に出てくる天皇はすべて存在したという前提で話を進めます。
<記紀に書かれた大和朝廷の初期天皇の事績>
この初期天皇の事績について、広畠さんの講演の時に配られた資料から抜粋してみますと、
第八代 孝元天皇
東播磨まで広げた後、吉備に挑む。加古川に前線基地。
第九代 開化天皇
吉備征服を達成。
第十代 崇神天皇
吉備文化の導入(弧帯文、特殊器台、布留式土器、オオモノヌシ)。
東西日本の統一。定型前方後円墳の確立。
つまり、第八代~第十代にかけて、吉備は大和に服属させられているわけです。
<魏志倭人伝に書かれた壱与の戦争>
魏志倭人伝によれば、卑弥呼が247年に死んだ後男王が即位したが国が治まらず争いが起こって1000人以上が死んだ。女王壱与が即位してようやく国は治まったが、狗奴国との間に戦争が起こり、壱与は魏に援軍を要請したということになっています。
この壱与vs狗奴国の戦争と、大和王権による吉備征服の歴史をどう結びつけるか。それによって、2つのストーリーが生まれます。
<ストーリーその1>
1つめのストーリーは、広畠さんが提唱されているもので、初期天皇の治世年数を平均約20年として計算すると、孝元や崇神の時代はだいたい3世紀後半となり、壱与の戦争の時代と合致します。
すなわち、3世紀後半に壱与邪馬台国は狗奴国と戦争をし、同じ時期に吉備と大和の間でも戦争が起こっている。吉備と大和の位置関係からして、九州が邪馬台国の傘下にある以上、邪馬台国=吉備、狗奴国=大和と考えるのが合理的です。
吉備邪馬台国は、3世紀後半に大和朝廷の開化天皇との戦争に敗れ、滅びます。吉備の傘下にあった西日本一帯の国々は次々に大和朝廷に服属していきます。
しかし、開化や崇神らは滅ぼした吉備邪馬台国の文化を抹殺することをしなかった。古代ローマがギリシャの文化を継承したように、吉備の古墳文化や楯築王の紋章や特殊器台などを大和に持ち込み発展させた。
<ストーリーその2>
安本美典さんが「邪馬台国東遷説」というサイトで細かく論証しているのですが、初期天皇の在位年数を10年というスパンで追いかけ、その結果初代神武の即位年について280年、開化や崇神の在位について340年~350年前後という数字をはじき出しています。これはすごくおもしろいです。
神武が280年頃に即位したということは、邪馬台国の卑弥呼の時代には大和朝廷はまだ存在していなかった。つまり、卑弥呼や壱与と対立した狗奴国は大和朝廷ではない。
神武の即位が280年ならば、壱与が狗奴国と戦争をしたまさにその時代に、神武は大和にあった国を攻め滅ぼし、大和朝廷を作ったことになる。
このことから、私の中にある2つめのストーリーはこうです。
日向に興り、北九州から安芸、吉備と進んだ神武一族が、吉備邪馬台国の傭兵となって、大和狗奴国を攻める。激戦の末、神武は狗奴国を滅ぼし大和を占領する。そして、大和の地に吉備の文化を導入する。
しかし、神武は壱与を女王としては迎えなかった。自ら王となって、大和の地に神武王権の国を建国する。神武の頭の中に、漢帝国建国の最大の功臣であり自ら王になることも許された身でありながら、あえて劉邦の臣下に下ることを選択してしまったがために、最終的に呂后によって誅殺されてしまった韓信のことが浮かんだのかどうかは今となってはわからない。
神武の大和朝廷は、建国後対外膨張を繰り返し、4世紀の中頃、開化・崇神の時に宗主国である吉備邪馬台国に叛旗をひるがえす。そして吉備邪馬台国は滅び、大和の属国になっていく。この戦争の時に生まれた悲しい物語が、温羅伝説なのかもしれない。
<結語>
2つめのストーリーが現実的なものならば、先日発見された総社の「一丁ぐろ古墳(4世紀初)」は壱与の墓の可能性があるということになるんだけどなあ。
まあ、忘れてください。
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